付属中学校の研究授業

午前中は予定が入っており、午後からの参加。

 

協議会に参加しました。

参観です。

 

第一部を社会科、

第二部を道徳に行きました。

 

興味関心がある方が集まり様々な意見が飛び交いました。

 

いろいろな専門分野の方で協議することを面白いなあと思いました。

発表と報告

似たような行為が故に混同されてしまうことが多いです。

大きな違いは、発表の「表」と報告の「報」です。

 

表向きに物事が0から一歩踏み出すということです。

発表される前では、ぽっしゃってしまった日の目を見ずにお蔵入りです。

 

一方、あることを任され、そのことに関することは、任してくださった方にそのことを「そのまま」伝える必要があります。

 

「〇〇発表会」「〇〇報告会」

いろいろ分けられて使用されています。

 

ここで、いじめに関して考えますと、

一教師は、業務の一つとして任されています。

なので、「報いる」必要があります。

「報告」する必要があります。

 

 

他者を理解すること

他者を理解することの大切さは様々なところで主張されています。

そのためにまず自己開示をすること、「知らない相手に心を打ち明けられないから」。

 

そもそもの前提として、理解することは大切であるが、理解できないことを受け止める必要があります。

 

人は理解しているかのように振る舞うことがあります。

それはその他者にも失礼ですし、第三者から見ても滑稽です。

「私は理解しているぞ!」という内面の傲慢さは、よりその理解の隘路となりえます。

 

そしたら理解しなくていいのか、

理解しようとする、ただそこには理解できないということを認識しておく必要があります。

 

子ども理解も然り。

子どもを観ること、それは自分の歩んできたからその子どものある側面をみてスティグマをする。その判断の「正常」は教師が「ヒデゥンカリキュラム」として成立することがあります。

理解できないということの認識が欠如しているがゆえです。

 

大卒の若造が4月から先生と呼ばれます。

先生を目指すのではなく、「先生」を目指して愚直に生きていきたいと思う。

 

自分の小ささを実感した

中学生、高校生の時、なぜあんな自分のことを大きく見せて誇っていたのだろうか。

 

自分の小ささを感じました。

それは心の問題だけでなく、多くの分野においてです。

 

私からみるとすごい方は、

決して傲慢にならず、どんな方からも意見を請います。

 

自分の小ささを実感し、

いまやっていることなんか全然たいしたことではない、という実感をしました。

 

この認識がなかった自分に「ハッ」となりました。

 

小さいなぁ。