学校という場を考えると

「学校」という場を考えていくと、

学校「であるからこそ」の場であることがわかります。

 

つまり、学校という特異性を生かして教育活動が行われるべきです。

 

学校じゃなくてもいい、AIがある水準に達したら教師はいなくても良いという論調は、学校という場の特異性、教師という立場の特異性を見落としているのではないかと思います。

 

それは時代とともに、学校や教師の位置付けが変容してきたことによる、認識の変化だと思います。変化したがためにみえなくなってしまうのです。

 

 

つまり、いまの目で本質をみる必要があります。

 

そのように考えると

学校の特異性の1つとして「大いに失敗させる」ことが可能だと思います。

 

大人からみればできて当然のことが子どもでは困難なことが多いです。例えば、「挨拶」はできて当然という風潮があります。大人の世界では、挨拶は基本であり、当然のことであると思います。しかしながら、子供のなかには身体化されていない子もいます。ある状況(初めて訪れる場所)ではできないこともあります。その子に対して、能力不足だと強く非難しがちでありますが、この子は挨拶という行為をきちんとできるようになるために試みている上での失敗なのです。

 

学校の特異性を理解せずして起こりうる、「失敗を認めない」教師の組織づくり、システムづくりに問題があります。

 

 

このように考えてみると、目の前の若者の問題行動を強く非難する大人がいます。

その大人が、自身の行動を振り返っているでしょうか。静かにやり過ごし、心の中で非難する、、、

 

 

 

「失敗は絶対許されない」

このような学校では、「何をすべきか」ではなく「何をしてはならないか」の子どもが育ちます。

 

問題行動を個人に押し付けることはやめて、その子を取り巻く環境にスポットを当てていくべきだと思います。

そして、その子を取り巻く環境づくりのリーダーの内省行為の必要性を主張したいと思います。