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道徳授業の記憶

 道徳の授業は現在、小中学校で週1コマの授業はありますが、教科ではなく、領域です。それが、今度「特別の教科」となります。戦後の道徳教育は、国家主義的色合いが濃かったとされる「修身」へのアレルギーもあって軽視されてきました。実際、にどんな道徳授業を受けたか尋ねると、大半が「ほとんど記憶がない」答えるように思います。

 

戦後の道徳教育は、国家主義的色合いが濃かったとされる「修身」へのアレルギーもあって軽視されてきたということから考えると、しっかりやってこなかったから「ほとんど記憶がない」ということを示していると言えます。つまり、「ほとんど記憶がない」という結果を、しっかりやってこなかったという原因が導き出していると言えます。

 

私は、このつながりに疑問を持ちました。

本当につながっているのでしょうか。

 

まず、「ほとんど記憶がない」ことはそもそもいけないことなのか。

次に、「ほとんど記憶がない」ことはしっかりやってこなかったからなのか。

 

前者に関しては、「ほとんど記憶がない」ことをいけないことだと捉えていることです。逆に言えば、「ほとんど記憶がある」ことはいいことなのでしょうか。そうとは思えません。私は、道徳的なことは、日常の小さな倖せを導くことだと思います。その小さな倖せを感じ、日々の生活を豊かにしています。その小さな倖せを一つ一つが記憶にあるでしょうか。むしろ、日常的に道徳的なことを行ってきた人ほどその人に身体知として身についていると言えます。つまり、「当たり前でしょ。」という感覚です。大きなビックイベントのように扱う必要はないと思います。そういうこともあってもいいでしょうが、、、

また、道徳授業を日常の小さな倖せを導くことだとするならば、「きっかけ」である道徳授業が「記憶にある」必要はないと思います。「ああ、倖せだなあ」という瞬間の「その時点、またその後」の記憶、というより気持ちがあればいいのではないでしょうか。

「ほとんど記憶がない」は必ずしもいけないことだとは思いません。

 

後者に関しては、前者のように捉えた場合に、むしろ道徳授業を学習指導要領における「要」の役割を果たしていると考えます。

「要」は、簡単にまとめると、

①道徳教育を補う

②子どもと学校の実態を踏まえた指導の深化

➂内容項目間の関係性の再検討と発展 です。

 

道徳授業が道徳教育の「要」であるが故に、教師は最善を尽くさなければなりません。文部科学省がモデルとしている扇も「要」がぐらついていては、うまく扇げません。

 

しかしながら、「ほとんど記憶がある」という結果を求める必要はないと思います。

「要」だからです。

 

 

したがって、私は「道徳授業」の「ほとんど記憶がない」に疑問を持ちました。

なお、「ほとんど記憶がある」を否定しているわけではありません。