他者を理解すること

他者を理解することの大切さは様々なところで主張されています。

そのためにまず自己開示をすること、「知らない相手に心を打ち明けられないから」。

 

そもそもの前提として、理解することは大切であるが、理解できないことを受け止める必要があります。

 

人は理解しているかのように振る舞うことがあります。

それはその他者にも失礼ですし、第三者から見ても滑稽です。

「私は理解しているぞ!」という内面の傲慢さは、よりその理解の隘路となりえます。

 

そしたら理解しなくていいのか、

理解しようとする、ただそこには理解できないということを認識しておく必要があります。

 

子ども理解も然り。

子どもを観ること、それは自分の歩んできたからその子どものある側面をみてスティグマをする。その判断の「正常」は教師が「ヒデゥンカリキュラム」として成立することがあります。

理解できないということの認識が欠如しているがゆえです。

 

大卒の若造が4月から先生と呼ばれます。

先生を目指すのではなく、「先生」を目指して愚直に生きていきたいと思う。