本質のミカタ
「苦労は買ってでもしろ!」
日本特有のイデオロギー?のせいか、よく言われます。
本意は「本質がミエル」からだと考えます。
なぜか、
マルティン・ハイデガーいわく
『物事が「うまく進まない」時にのみ、我々は、正しいものや適切なものの観念を想定する。』のです。
つまり、我々が大いに我々の指先から零れ落ちるときはじめて、理論を得ようとするのです。
例えば、
ハンマーが壊れて、その代わりになりそうなものを熱心に探すときにのみ、ハンマーの本質の問いを開始するのです。
これが、「本質のミカタ」であり、
「苦労は買ってでもしろ!」の本意ではないかと思います。
あくまで主観的な考え方です。
それを一要因として教育の在り方をみますと
「大いに子どもに失敗させよう」または「T-C、C-Cがぶつかり合おう」と
思うのです。本質をみるため、それは結果として子どもが周囲の人たち倖せに出来る子になり、倖せにしたくなる(愛される)子になると思います。
もちろんリスクはあります。
命を落とすこと、後遺症がでることは絶対に起こってはいけません。
子どもの失敗から「ガラスが割れた、学校のものが壊れた」なんてのはなんの問題も無いと思います。そこで、「本質のミエル」機会を与えてあげるかどうか重要です。
自分の身を守るために、ゼロトレランス方式になっていませんか?
行為ではなく、その行為をコアとしてコンテクストから観ること求められます。
と思ったのですが、、
コミュニケーション環境を説明するのに役立つ概念として、アメリカの文化人類学者であるエドワード.T.ホールが唱えた「ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化」という識別法があります。これを考えた時に具体的な教育手立てに関する考えがぶれます。
うーん。