目的が決まっていれば方法はなんだっていい

目的を定めるのにどれだけの時間をかけるだろうか。

 

授業をすることになった時に

素材研究

教材研究

指導研究の順に行っていくと考えられます。

 

の前に「なんでこの授業するの」の問いに向き合う必要があります。

この目的をどう設定するかで授業が決まってしまうのではないかと思います。

それをどうやったら実行できるかできないかがその後に問われるのです。

子どもにより選択の幅を設ける

子どもにある程度行うことを定め、

子どもにそのレールをあるていくことを求めているように感じます。

 

子どもにとってそのレールを歩いていけば倖せだからと、、、

そのレールをどうして一本しか設けないのだろうか。

何本か設けるべきだと思います。

または、子どもによりそのレールを描いて歩いていけばいいと思います。

 

歩いていくには子どもが歩こうと思わなければ前には進んでいきません。

子どもにレールを選ぶ権利があると思います。

 

 

 

集中講義終了

三日間の集中講義が終了しました。

 

モラルスキルトレーニングの道徳授業の方法を学びました。

 

スペシャリストよりゼネラリスト。

 

いくら道徳授業が上手くても、ある一つの授業方法に固執していてはなりません。

生徒の実態に即して、様々ある授業方法をチョイスして行う、

多様性のある道徳授業が求められます。

 

その人が‥

人は生きてることで行う選択が1日に何回も訪れると言います。

それは、二者択一というわけではなく、その時の状況により複雑に存在しています。

 

そこで、私がその選択の基準として多く用いているのは、「その人が‥」というものです。特に、意識はしていなかったのですが、考えてみるとそれが幾度となくありました。

 

例えば、師と仰ぐ先生がこういう音楽を聴いているとわかった時に、その音楽そのものではなく、「その先生が来ているなら」という選択の仕方をします。

また、言葉に関しても、「この先生が言っているのなら」となります。

しかし、これは逆にも言えます。

「その人が‥ないなあ」ということです。

 

 

物事をみるときこの視点のみではいけないなと感じていますが、影響が大きいように思います。第一の好奇心を喚起することを考えると必要に感じます。なので、段階に分けて捉えるようにしたいと思います。

まずは受けとめること、それをどうするかはその時々で精査する。