授業論はやめよう

授業技術論を語ることへの3つの疑問である。

発問や教材等のブラッシュアップの必要性である。私は必要ないと思う。

一つ目、自分で考えたものが何万人の英知に敵うはずがないからだ。研究授業のように1時間を何ヶ月もかけて考えられるだろうか。無理である。巨人の方にのるべきだ。

二つ目、それは子どもの誰にフィットしているのだろうか。だいたいの子だと思う。見捨てられている。一分間子どもにじっとさせる実践を見たが、だいたいの子どもにはトレーニングになっているが、ある子どもにとっては虐待であると思う。教師は、これを正当化して行えることが怖くなった。縦糸の強い教師はこれが怖い。先の未来を想像しない善意の詐欺師だ。

三つ目、その学習課題は幸せにつながるのだろうか。社会人になって高校の時の微分積分、数列を忘れてしまった。忘れたから不幸になってしまったか。変わらない。学習課題は、何の意味もない。必要な人が必要なだけ学べばいい。

 

このことから授業技術論はやめようと思う。

そうなると代案だ。人とのつながり論、対話論で語るほうがいいと思う。

その行為は、あなたは得、けれど相手は損です。そうなるとあなたの信頼はなくなります。長期目線で損ですよ。ただ、あなたはこうしたいんですよね。どうしますか。

相手のしたいを認めてあげてはどうですか。自分のしたいと妥協点を探りましょう。長期目線で妥協「線」にしてもいいですね。

損得で人の行動は決まる。対話だ。

目的は自由の獲得。

手段は対話だ。