他者を理解すること
他者を理解することの大切さは様々なところで主張されています。
そのためにまず自己開示をすること、「知らない相手に心を打ち明けられないから」。
そもそもの前提として、理解することは大切であるが、理解できないことを受け止める必要があります。
人は理解しているかのように振る舞うことがあります。
それはその他者にも失礼ですし、第三者から見ても滑稽です。
「私は理解しているぞ!」という内面の傲慢さは、よりその理解の隘路となりえます。
そしたら理解しなくていいのか、
否
理解しようとする、ただそこには理解できないということを認識しておく必要があります。
子ども理解も然り。
子どもを観ること、それは自分の歩んできたからその子どものある側面をみてスティグマをする。その判断の「正常」は教師が「ヒデゥンカリキュラム」として成立することがあります。
理解できないということの認識が欠如しているがゆえです。
大卒の若造が4月から先生と呼ばれます。
先生を目指すのではなく、「先生」を目指して愚直に生きていきたいと思う。
自分の小ささを実感した
中学生、高校生の時、なぜあんな自分のことを大きく見せて誇っていたのだろうか。
自分の小ささを感じました。
それは心の問題だけでなく、多くの分野においてです。
私からみるとすごい方は、
決して傲慢にならず、どんな方からも意見を請います。
自分の小ささを実感し、
いまやっていることなんか全然たいしたことではない、という実感をしました。
この認識がなかった自分に「ハッ」となりました。
小さいなぁ。
らいふ
phatmans after school『7日間』
「いつかきっと
また会えるかな
生まれてこれるかな
神様 次こそは
生きて 生きて 生きてみせるから」
私は共感したいと思ってもある人から言わせれば、できないことだと思います。
この曲をきくと、歌詞だけではありませんが、
なんだか不思議な感覚になります。
夢は持たなきゃだめですか、
「こういう中学生であるべき」なんてのは大人の傲慢だと思います。
タイトルにもあげました、
夢は持たなきゃだめ、ある程度のお金が稼げればいいという考えがだめ、友達がここに進学したからここに進学するという考えがだめ、
「いいじゃん!その子の価値観なんだから!」
一つ例を挙げますと、
Aくんが「Bくんが〇〇高校に行くから僕も〇〇高校に行く」といったとします。学力を見れば、Aくんは〇〇高校より偏差値が高い△高校進学できる確率が高いです。
「△高校に進学できるよ」いまの実態をみればそういう勧め方をするでしょう。
判断は子どもや保護者に任せていますが、いまなお、より偏差値の高い、大学高校に進学を勧めます。
私の考えは、倖せの形は人それぞれです。
AくんがBくんが仲良く今後ともに支え合うことも考えられます。AくんがBくんといることは大きな倖せの一つとも考えられます。
それを大人で考えてみますと、仕事を一生懸命して、昇級、昇給することを生きがいにすることもいいでしょう。
しかし、仕事はそこそこに生きていくぎりぎりのお金でも、家族とともに過ごす時間を大切にしたい、
という考えもありだと思います。
大人は子どものためと思いいろいろとこう生きれば倖せになれると言います。お前のために言っているんだと言います。
傲慢です。
いい大学に入れば、いい職業につけるぞ!というのは
いまでは神話でしかありません。
学校行事
ある学校行事をみました。
現場の教員でないので勝手なことだと承知の上で書きます。
そして、全てがそうだと般化して主張しているわけでもありません。
あくまでこの学校行事の感想です。
学校行事がなんとなく行われてないだろうか、と思いました。
学校行事は特別活動として位置付けられています。
いま旬である、道徳教育との関連も密になっています。
行事を目的に基づいておらず、形式化しているように思えてなりません。
各教科、各領域との関連、そしてそれぞれの子どもの発達に即して各行事の目的を達成させること、それは、年間を通じた見通しも必要です。
そして、一番は子供ベースの学校行事であるべきです。
これに関連して、様々な問題がみえてきましたが
一番問題だと感じたことは、
ある子どもが見捨てられていたということです。
一斉指導の問題点が取り上げられていますが、
その一斉が全校規模になっていることからその問題の影響も大きくなります。
子どもが見捨てられていくその事実を目の前でみて心が痛くなりました。
「ありがたーいお話」では子どもに響きません。もっと人間くさい部分が教育には大切だと思います。
目的に常に戻る、目的に意識を持っていく、そうすることで、「なんとなく行事」がなくなっていくのではと思います。
その目的も「例年通りで、、」という決まり方なのでしたらもう何もいうことができません。