「不易」と「流行」

講義でビデオをみました。その感想です。

ビデオの内容は、マレーシアでICTを駆使した、「未来の学校」を取り上げたものです。

  ビデオをみての感想を以下に述べる。ICTが時代の流れから重要になってきている。
  確かに、ICTを徹底駆使することにより、小学校段階でバイリンガルが可能となったり、「ニュートン」を使い、答えにすぐには入らず考え方を示されることで、関心を引き出し、理解を深めたりしている。その効用の大きさは事実である。それに伴い、「教育だけが旧態依然のままではいけない」、「教師は生徒に教えるだけでなく学んでいく」という先生方の意識の高さがうかがえる。その意識の高さが生徒にとってよりよい教育活動の向上につながっている。
 しかし、「流行」のみに飛びついていないだろうか。教育は、「不易」と「流行」の部分がある。「不易」はいつまでも変わらないこと、「流行」は時代々々に応じて変化することである。「不易流行」という言葉である必要がある。それは、①いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと、②また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であることが大切である。元小学校教諭であった野口芳宏氏も「不易」の重要性を述べている。「教育は、不易の部分こそが大切」である。「本当は変わらない部分、不易の部分こそが大事である。それは、歴史の裁きを受けてなお残ったものだからだ。教育の根本・本質はむしろそこにこそあるのだ。」と述べている。私もそのように考える。ICTを学校教育において十二分に活用し、充実する必要性はある。しかし、それのみに飛びつくことにより「不易」を「観失う」ことは、むしろ学校教育活動に影響を及ぼすと考える。その一つとして、「生のかかわり」――「Face to Face」――が少なくなると考える。「生のかかわり」は「自立、協働、創造」の方向性からも必要である。株式会社セブン&アイ・ホールディングス前代表取締役会長鈴木敏文氏も「生のかかわり」の必要性を述べている。年に一回全国の幹部を本社に集めている。ICTを使用すれば、かかわりをつくることはできる。しかしながら、多額の費用をかけても直接的なかかわりを持つために集めるのである。
 したがって、私はこのビデオをみて、「流行」の必要性――教師が学んでいくべき――を感じたが、それに伴う「不易」の喪失――教師が大切なことを失う――を危惧している。

 

 

「授業中にICTを活用して指導する能力」として、次回ミニ授業を全員でシェアすることになりました。教科、対象は自由に設定して良いということでした。そこで、中学三年生を対象とした「ミニ道徳」授業にしました。オリジナル授業です。インドクトリネーションの傾向がありますが、「伝えたい想い」をのっけているので今回はこの方向性でいきたいと思っております。2分程度の授業ですが、完成までに二時間くらいはかかってしまいました。

 

唯一、実際に生徒にできないということが残念です。

 

また、こういう機会がありましたら、オリジナル授業に挑戦してみたいと思います。

 

 

 

誕生日をお祝いする行為は傲慢なのか。お祝いする自分によっているのか。相手におめでとうと伝えたい、だからする。相手に喜んで欲しい、だからする。相手に日頃の感謝を伝えたい、だからする。誕生日はめでたい、だからする。出逢えたことそれは生まれてきてくれたから、ありがとうを伝えたい、だからする。

 

「友の誕生日」今日は彼にとって良い日であり、今日からスタートする一年間が倖せであってほしい。いつも有り難う。