「人間の条件」とシティズンシップ教育

 

ハンナ・アレントが約60年前に書いた

「人間の条件」を読み直しながらの議論。

そしてシティズンシップ教育の授業提案。

 

政治家だけに政治を任せるのではなく、

市民が直接政治に参加すること。

これまで行政や官僚が担ってきたものを

市民が担うようにしていく、

そういった新しい政治や社会の在り方を

示す概念としての公共性。

そんな市民の条件として、

「考える」という人間の思考と

「行為する」という人間の活動。

 

同質的団結や閉鎖的結合の同胞愛より、

不均等で異質なもの同士の関わりである友愛。

それが公共性につながる。

同胞愛は異質な他者を排除することも。

 

空気を読むような同質性に支配された

同胞愛に基づく世界は、

生きにくさや不自由さにつながり、

学校ではスクールカーストやいじめの土壌に。

 

存在そのものを消し去る「忘却の穴」

つまり、見捨てられていること。

学校こそが万人によって見られ、聞かれ、

可能な限り最も広く公示される条件を満たしており、

「忘却の穴」を回避することが求められる。

 

自分とは異なる存在とどう共存するか。

活動は様々な人と人との間に成立し(複数性)

こっち側、あっち側と生まれるけど、

単純な2項対立で見て、

安易に、強引に、合意形成するよりも、

多様な価値観(不一致)にふれ、

論点を明確にしながら思考する場をつくること。

決してマジョリティーが良い答えだとは限らない。

「思考」があっての「活動」。

 

「空気を読む」空間では、

人間として大切な思考は生まれにくい。

異質な他者と共存する心持ちや公共空間の構築を

いかに実現していくか。

人間存在の複数性に根ざした平等観のもと、

複数の異なる人間がいる時に、

異質性に注目すると「分離」につながり、

共にいるという面に注目すると「結び付ける」に。

 

児童中心主義の登場は、

子どもの世界が絶対化されて、

大人は子どもが導かれていく世界に対する責任を

拒否することにもつながりかねない。

 

単に生物学的に「生まれる」というのではなく、

新しい人々の誕生、新しい始まり、

それによって行いうる活動という意味での「出生」が、

世界の中に新人として招き入れられ、

複数性が維持されながら、世界更新につながる。

そんな出生概念をふまえながら、

過去と未来を出会わせ、橋渡ししながら、

世界がどのようなものかを教え、

未来を創っていく責任を負う教師・学校の在り方とは?

 

新しいものと古いものが出会う場が大切であり、

学校や教師はどう教えるかという方法論への傾斜でなく

何を教えるかを広く深い視点で考えることが大切では?